一年半ほど前の、年末のことだったと思う。小学校の同窓生と久しぶりに再会し、話が尽きず、夜の東京を、どこへ行くともなしにふらふらと語り歩いていた。夜気が心地よかったのを覚えている。うちとけた気持ちで、新宿から御苑を右手に曙 橋 を抜けて、外堀通りを市ヶ谷まで歩いてきた。夜もたけなわ、最終電車も、もう過ぎた。曙橋を過ぎたあたりになると、小さい時から見慣れた風景が戻ってくる。そんなふうに思っていた時だった、ふと目に入った光景がある。
真っ暗なお濠 の方を見ると、市ヶ谷駅がいた。列車も、乗客も、駅員も、誰もいない。ホオムのライトだけが暗闇のなかに、煌々と光っている。せわしない列車のベルはならない。列車の音も聞こえない。静まり返った深夜のお濠には、その水面に無数の光の錨 をおろした一隻の舟 がとまっていた。ずっしりとした存在感。何度も降りたこの市ヶ谷の駅の、その素顔を初めて見たように感じた。
市ヶ谷とお濠。東京・ないと。
十代の頃好きだった映画「ないと・みゅーじあむ」。博物館の夜、展示物たちが息を吹き返し、動き出すことにはじまるファンタジー。あれは、ただの嘘なんかじゃない。
東京・ないと。事物たちは、息を吹き返し始める。昼の世界で息をひそめた事物たちは、夜になって、その存在を顕わにするのだ。それから、事物同士で交流しはじめる。人は夜に、時として、その交流を垣間見ることができる。
東京・ないと。かくれんぼ。
東京・ないと。みーつけた。